第十五節「大陸前暦十年の風 − 参符 −」

「こちらを行こう デーモンテイルに行くにはこの道のほうが近道だ」
魔王アホンダウラのいるという居城ナムクサンダラのある デーモンテイルの地へ向かって六日目のこと
そのナムクサンダラまであと僅かの距離までに迫ってた一行は 氣がせいていることもあって 無意識にその歩調も速くなっていた
果てしなく続く街道をただ黙々と進んでいたふとその時 先頭を行くハイネストが ぴたり と立ち止まり 街道より少し外れた位置にある森を指さした

「ほう この辺りに詳しそうだな」
サンソレオが意外そうな顔でハイネストを見た その視線にハイネストは一瞬 懐古の情の篭った眼差しを浮かべる
「…この森は俺にとって多少 縁があるのでな」
「 カイン峠の奇跡 だな」
フラッシュ=バックの言葉に ハイネストは何も言わずただ ニヤリ と笑っただけだった
カイン峠の奇跡 …その言葉にあるものは尊敬の念を抱き また あるものは畏怖と恐れを感じるという
それはまさにサディ達がいた 大陸歴十八年に於いては伝説的な戦いとして
そしてこの時代 大陸前暦十年の人々の記憶にも未だ新しい出来事として
幾多の吟遊詩人達によって数多くの詩が創られる 不朽の伝承として語り継がれている

戦士ならば そして何より兵法を習う軍師ならば その閃速とまで謳われる電撃戦について 一度なりとも紐を解いた事があるほどのものだ
今から二年前の琥珀月皇国と イルハイム公国との戦いの命運を決したのも
この戦いだった琥珀月皇国の首都に迫る 数万とも言われたイルハイム公国の軍勢を
カイン峠においてハイネストが率いる 僅か数百の機動隊で戦場を裁断し
ハイネスト自身の手で敵の総大将を討ち取ったという結末で終わった出来事は まさに奇跡としか言いようがないものだった

しかし これほどまでに人々に知られる戦いながら 今の世に語られる詩人達の詩にはあまりに脚色が多すぎる
というのもその真実を知る者がほとんどいないせいでもあるが
ハイネストに率いられた 自ら自分の意志で集った数百の兵の中で 生き残った者のほとんどすべてが その事については何も語ろうとはしなかったのだ
そして当の将軍ハイネストでさえ 国王に報告をおこなったときでさえ笑みを浮かべただけで 詳しい経過については口を開こうとはしなかったと言う

ハイネストの口が重いことは別としても 兵達すら何も語らなかったという事実には さすがに琥珀月の民も疑問だった
しかし 決してそれが強制などではないことも同時に知っており ハイネストがそれを架す様な人物でないことは 民の誰もが知っていることだった
真実の隠された カイン峠の奇跡 は しかして ハイネストと言う人物を世にしらしめる戦いであったことは間違いない
その功績によりハイネストは琥珀月皇国第二中将軍の位を授かり 以後 必剋将軍の二つ名で呼ばれることになるのだから

その時の戦場となったカイン峠が ここからやや東に行ったところにあるのだった
近道に反対する者があるわけもなく 一行はハイネストの提案通り 進路を変えて森を抜けて行くことにした
森はかなり木々が密集して生えており 一見して人間が通れそうには思えなかったが
ハイネストが枝や草を押し分けて少し進むと 間道にしてはお粗末な四 五人が並んで通れるくらいのやや広めの獣道が現れた

案内の出来るハイネストとサンソレオ そしてアルジオスの三人を先頭に邪魔な枝を切り落としながら下草を踏みしめ進んで行く
さすがに獣道だけあって道を知る者がいなければ いつの間にか迷ってしまいそうな 同じ様な木々がすぐ脇からずっと奥へと広がっている
頭上に昇った太陽からは 枝々を通して昼下がりの木漏れ日が降り注いでくる

「この森を通ればデーモンテイルまで大体二日で着くが 一つだけ言っておく この森では魔法は使わないほうがいい」
歩を進めながらハイネストが言った
「どうして?」
当然の質問がウォーラから飛ぶ
魔法使い達にとってみれば魔法を使えない と いうことはいわばその力を封じられたも同然である
「かつて この近くが戦場になったことがあった その時この辺りで戦った魔砲隊が 何かに心をかき乱されて思うように発動しなかった そう それがおよそ数 瓩米 キロメートル 先のカインの滝まで続いている」

「そうですか ならばその間に戦いになったなら 私は静観させてもらうしかありませんね」
外套の裾に引っかかる蔦草を 注意深く避けながら進んでいたドレイラがため息まじりに呟く
その後ろではやはりウォーラが裾に絡みつく蔦草と悪戦苦闘している その為しばしば遅れることもあり そのつどサディに叱られる
…といつもならそうなのだが
サディは森に入ってからずっと何か考え込んでいる様子で 黙々とサンソレオの後ろについて歩いていた

…あの時リフィラムは何が言いたかったのかしら
サディは数時間前の小さな街でのことを思い起こしていた
その街はデーモンテイルへと続く街道沿いの宿場町で 昼過ぎだったこともあり物資の補給も兼ね 休息をとる意味合いで立ち寄ったのだ

さすがにナムクサンダラに近いだけあって 人々の表情は暗いものだったが 意外と 街としての機能は働いていた
ハイネスト達が食料などの調達に市を回っている間 サディは一足先に酒場に戻って待っていた所 そこでワインを傾けていたリフィラムに出会った
いや リフィラムがこの街に立ち寄ることを見越して待っていたのだ
身構えたサディに リフィラムはこう言った
「言ったろう まだ事を構える氣はないと 俺は西の扉で待っている そこが決着の場だ 次に会う時が戦いの時 それだけだ 遥か遠き我が血族の者よ」
それだけ言うと リフィラムは酒場を後にしたのだ

遥か遠き我が血族の者か…
獣道は次第に狭まっていき いつの間にかサディの隣には 二十八年後には憎ったらしい敵となる そのフラッシュ=バックが並ぶ形になっていた
サディがふと顔をあげて横を見た時 フラッシュ=バックもサディの存在に氣が付いた
一瞬 空しい視線が交錯する
一瞬遅れてフラッシュ=バックは
ばっ
と横へとびずさった が そのままバランスを崩し
ドッ
とコケる
そのまま枝々を折りつぶつつ ガサガサ と獣道の脇のしげみに突っ込んでしまった
唖然としてその様子を見ていたサディに ふと 後ろを振り返ってサンソレオが思いだしたように手を叩く

「ああ そうだった 兄者は女性 特に 吸精姫 サキュバス 恐怖症だったな」
「ぷっ…くくく…」
後ろでウォーラの堪えた笑い声が 所詮 自分の素直な感情を無理やり押さえつけることなど彼女には出来はしない 堪えきれずにとうとう大笑いし始めた
ランド=ローも背を向けたまま 珍しく肩を震わせている
苦笑で何とか留まったのはアルジオスとドレイラだ
折れた枝の山から這い出したフラッシュ=バックは サンソレオの羽織の後ろに隠れ サディの姿をかい間見る
「ば 馬鹿 余計なことバラすな 弱みに付け込まれるのがイヤで ジンマシンを堪えてたのに…」
そう言うフラッシュ=バックの顔には ぷつぷつ とジンマシンが浮かび上がる

「きゃはははは…師匠が吸精姫! なんてぴったりな表現… は し 師匠…!?」
「…うぉ〜らぁ」
地の底から響くようなサディの声 ウォーラの背筋に戦慄が走る
「師匠 す すいませんっ! えとあ あの…!」
恐怖にひきつるその顔 しどろもどろになりながらも
何か言い訳を考えようとするが 焦るばかりで頭の中は真っ白何も浮かばない
「ウォーラ 魔法の特訓メニュー これから三倍だから」
「そ そんなぁ…くすん」
こうして再び獣道を歩き始めた一行の一番後ろから
ウォーラは落ち込みながらとぼとぼと重い足取りで歩いて行くのだった

そして歩くこと数時間 幾つもの獣道を通って
ハイネスト達は夕暮れ前には 森の開けたカインの滝まで到着していた

「もう少しで森を抜けるが 日が落ちるまでにはさすがに無理だ 丁度 水も豊富な場所だし 今日はここで野営だな」
太陽は西へ傾き 森全体を高い崖より流れ落ちる 眼下ではカインの滝の流れを 鮮やかな朱が染め始めていた
絶え間ない轟音をたてて 水しぶきをあげる 滝壷には夕日に美しく 調和した幻想的なもやが立ちこめている
「この森を抜ければ デーモンテイルまではもう目と鼻の先だ 明日が決戦の日になる」
「いよいよ 明日か…」
サンソレオが万感の思いを込め言葉を漏らす 長きに渡る降魔神軍との戦いも ようやく終焉の時を向かえるのだ
魔王が倒されるか あるいはこちらが全滅するか…どちらにせよ大陸の命運は明日決まる

「さぁて 明日のために夕食をとって しっかり休んでおきましょ」
焚火の焚けそうな大地を適当に見繕って 野営の場所を決めると サディは荷物をおろし身につけた板金鎧を外しにかかる
みなもそれにならうかの様におもいおもいに楽な格好になると 手ごろな岩や外衣を敷いた地面へと腰を落ち着けた
『如発火律!』
その辺りに転がる 乾いた小枝をかき集め 保温と明り用に火をつけると
みな袋の中から持参の食料を取り出し 空腹に音を立てる胃袋に放り込んでいく

「デーモンテイルでの決戦は明日…みんなの今までの協力 俺はとてもありがたく感謝している」
防水の完璧に施された水袋にいれて持ってきた 醸造酒を少しづつあおりながら ハイネストがぽつりと言った
「礼なんぞいらんと前にもいったろう ハイネスト 俺達はおまえの志に共感したから 力を貸しておる それは兄者や ラトゥヌムゥも同じこと」
純白の板金鎧を着たままのサンソレオが答える 酒漬けの乾燥肉をかじりながら あえて視線はハイネストの方に向けない
隣のフラッシュ=バックも こちらはいつの間に捕ってきたのか 小兎の肉を火であぶって 口に運んでいた
フラッシュ=バックはハイネストに向かっていつものマセた笑みを浮かべた
「明日 魔王を倒した後に その科白は聞きたいね」
ハイネストはその言葉に地呑獅刀を手元に引き寄せる その行為にフラッシュ=バックは ハイネストの決意のほどをはっきりと感じ取った

「サディ」
「は?」
取り出した奇妙な食料 先程の街で見つけた保存のきく野菜のような 房状の食べ物をぱくついていたサディは その動きを止めハイネストを見た
ハイネストの言いたいことを悟ると
「私達は貴方に雇われているのよ 礼を言われる筋合いはないわ それにみんな好きでやっているんだから氣にしない 氣にしない」
再び食べることに集中するハイネストは 誰にともなく微笑むと水袋の酒を大きく呷った
「あとこの森は夜になると意外と獣が多い 火を絶やさないように夜営の順番を決めておこう」

「なら 俺はハイネスト あんたとがいい」
火を囲む輪の外からする声に そちらに視線が集中する カインの滝へと続く岩場の方から何かを背負ってアルジオスが姿を現した
「どこに行ってたんですか?」
「なに ちょっと新鮮な食料の調達にね」
ドレイラの言葉にアルジオスは ドサッ と背中のものを地に下ろした ばたばたと勢いよく跳ねる それは見事な大きさの虹赤鱒たちだった
体の横に走る赤紅色のおび状の模様は みな虹色に照り輝いているようで まさにとれたての活きのよさを誇示しているかのようだ
全部で九匹すべて三十糎以上の見事な型で 虹赤鱒の大きさの中では最上の部類に入るものばかりだ

「ほぅ 立派なものだな」
サンソレオが感嘆の声を上げる
「全部 手で捕まえたのか?」
「いや 枝を削って簡易版の槍をつくって それで」
自分の荷物のおいてある所へ腰を下ろすと アルジオスは 革靴 ブーツ に刺していた 刀身の長い特別製の匕首を数本抜き
鮮やかな手つきでそれらをシメると 一本づつ虹赤鱒の口から匕首を突き刺した
「ちょっとカインの滝に降りてみたんだ そしたらコイツらがいたんで 夕食にと思って捕まえてきた 水のきれいな所にしかすまないからな虹赤鱒は あの滝の水は飲み水にも使えるってことだ」
焚火の中に刺した串魚が 香ばしいいい匂いを漂わせ始める
「喰いたい奴は 好きにとって喰ってくれ」
それだけ言うとハイネストを見 アルジオスは言葉を続ける
「で 夜営のことだがちょっと 話もあるんであんたとがいいんだがどうかな?」
「断わる理由もないな」

「バッくぅ〜ん 君は私とね 私もちょっとお話があるの」
不氣味なくらいに笑みを浮かべてサディがカマトトぶる 指名されたフラッシュ=バックは飲んでいたワインをゲホゲホと喉につまらせてむせかえる
「俺は一人で十分なんだが…」
「あ〜らそんなこと言っていいのかしら? ジンマシンが出ちゃうわよぉ」
じりじりとにじりよるサディに
フラッシュ=バックの頬が素直に ぷつぷつ と反応する ずいっ とそのサディから身を引くフラッシュ=バック
必死に全身のかゆみをたえるが 突如その顔がぐっと前に突き出される ほんの目と鼻の先にはサディの微笑む顔
「まてまて… わかった! お供する 俺が悪かったっ!!」
「でかしたわよ ウォーラ」
「はい 師匠」
後ろでフラッシュ=バックの顔を捕まえているウォーラの返事 最近 と言うより獣道でサディの事を笑ってから
ウォーラは事あるごとにゴマをすっている まぁそれだけサディが恐いといってしまえばそれまでなんだが
「ごほうびに…」
機嫌のよさそうな声 らっきぃ! ウォーラは心の中で手を叩いて喜ぶ
「…特訓メニュー さらに二倍にしてあげる」
(げ…まだあのコト氣にしてる…師匠ったらホンットに心が狭いんだから…)
「あの サンソレオ」
「うん?」
振り返ったサンソレオにドレイラが話しかける
「私も 少しばかり貴方と話がしたいのですが 星霊との信仰のことについて…」
「よかろう」
「これで決定ね 夜営はこの三交替 一直目がハイネストとアルジオス 二直目が私とフラッシュ=バック
三直目がサンソレオとドレイラ でいきましょ いい? ランド=ロー」
「わざわざ疲れることを 自分から志願する馬鹿はいませんよ」
フッと笑うとランド=ローは 焚火の中の焼けた魚を手に取った
「ごもっとも で ウォーラだけど…」
「は はい」
まさか明日が決戦だというこんな重大な夜に 魔法の特訓などしないだろうと考えるものの
師匠の所々欠落した常識が恐ろしい どきどきしながら言葉を待つウォーラに
「貴方も宿直はなし 大人しく寝てなさい」
意外な言葉にしかし元氣よく答える
「はい!」

そして 時は流れ ごうごうと流れる滝の音が静まり返った森の奥へと無限に響きわたる
闇のケープに覆われた夜空には 遥か長き歳月を経て輝く天空の宝石があまたに散りばめられ さながら夜の女王を飾っているかのようだ
東方の空に姿を見せ始めた望月は 昼の太陽とは異なった冷たく青白い光を大地に投げかけている

カインの滝の側だけ夜の帳を打ち消す焚火の明りと 十分にくべられた枝の ぱちぱち とはぜる乾いた音が別の世界のように浮かび上がっていた
その中で向かい合うようにして 焚火の明りを見つめる二人の戦士はお互いに沈黙を守ったまま 身じろぎもせずに時を費やしていた

「なあ ハイネスト」
大地に外套を敷きその上で片膝を立てて座るアルジオスは 少し離れた岩場に腰掛け 先ほどから焚火の炎だけをじっと見据えるハイネストに視線を向けた
「何だ?」
「あんたは何故 戦う?」
アルジオスの何氣ない問いに しかしハイネストは一瞬 表情を動かす
「わからん 強いて言えばそこに敵がいることと…」
言いながらハイネストは手にした地呑獅刀に一瞥を向ける
「…相棒がそれを望んでいるからかな もっとも 本当はそんな御大層なものじゃないがね 俺自身が 闘争の星宿 アルマラロード を歩んでいるにすぎない」
「闘争の星宿 か…」
妙に実感の篭ったアルジオスの呟きに ハイネストはふとそちらに注意を引かれた
焚火の照り返しに赤々と染まった アルジオスの表情はどこかしら沈んでいるようにも見えた

「親殺しってヤツも 血塗られた闘争の星宿を進むことを 宿命づけられているのかな…」
あえて沈黙するハイネストに アルジオスはさらに言葉を続ける
「ある国にな ひとりの少年がいたんだ
その少年は 国の中でもかなりの貴族の出身で 幼いときから 多くの使用人達にかしづかれ何不自由のない生活を送っていた 
母親は遠く王家の血筋を引く美しい女性 そして父親はその国の王国騎士団長の地位を授けられた立派で勇ましい貴人だった
その少年は立派な騎士団長の父に憧れ いつか自分も大きくなったら騎士になるんだって幼心にも決めていた
その父親はそんな息子に毎日 剣の稽古をつけてくれていたんだ
騎士にならなくても いずれはその家を継いで当主となるのだから剣ぐらいはと言うのが父の考えだった
ごく一般的な そして幸せな家庭だったよ
そしてそれがずっと続くはずだった その少年が普通の貴族のぼっちゃんだったのなら…」
パキンッ と手元の枝を二つに折り アルジオスは炎の中へと投げ入れる

「その少年の剣の腕は驚くべき速さで いや 恐るべき速さで上達していった
九歳の時にはすでに一般の騎士の相手をしても 三本に一本を取れるようになり 十二歳の時には彼らじゃもう相手にならなかった
父親はいたく喜んでいたよ 立派な自分の後継者になるって だけど 悲劇が起こった」
アルジオスの瞳にうっすらと光るものが浮かぶ それに氣付きすぐに顔を背けたが ハイネストはそれを見逃さなかった
「十四歳の時だった いつもの稽古の時 父親は少年が見事な剣さばきをみせながらも
どこかぎこちない様を見抜いてこう言った
(なぜ いつも右手で剣を振るう おまえは元来左ききであろう 手を抜くな)
少年はそれを頑として拒否した が どうしても許さない父親に渋々ながら左手に剣を持ち変えたんだ
そして父は息子に恐怖した 右手の時とはまるで人が変わったように雰囲氣が一変していた
いままで互角だった打ち合いに 父親の剣がまったく追いつかなくなった
少年は自分の心につき動かされるままに剣を振るい そして父親の首が宙を舞った…」
足元へ置いた剣を手にとると アルジオスは柄に手をかける

「王国の騎士団長が しかも子供に殺されたとあっては国の名誉にも関わると父親は急な病死とされ
その少年の罪は不問にされたが 親殺しには変わりはない
幸い三つ下に妹がいたから家系は彼女が継いでくれると思って少年は家を出た
少年は恐ろしかったんだ 親殺しの罪がじゃない…」
アルジオスが剣を抜刀し跳躍する  同時にハイネストも岩場を蹴って立ち上がった

ザッ…
銀閃のきらめきが闇を切り裂く 重い音を立てて何かが地に落ち それは音もなく忍び寄っていた 巨大な野生の黒毛豹の首だった
鮮血の滴るファルシオンを左手で構え アルジオスは後ろを振り返ってハイネストを見た
黒毛豹の胴体から噴き上がる多量の血を浴びた その表情は冷酷でそしてどこか哀しげだった
「この左手が恐かったんだ 左手で剣を握れば何故だかわからないが殺意が湧き上がってくる
だから俺は左手で剣を振るうことを極力使わずにしてきた いつか自分の意志に反して 体が動くような氣がして恐ろしかった
二度と父親のような悲劇を起こしたくないから…」

「傭兵をしているのは 死に場所を求めているからか?」
「かもしれない 結局闘争の宿道から逃れるには終点は死だけだからな」
くるりと体の向きをかえると アルジオスはハイネストの瞳をじっと見つめた
「…ハイネスト一つ頼みがある 俺と剣の手合わせをしてもらえないだろうか 噂に名高いあんたの剣の腕直に感じ取りたいんだ」
「よかろう」
ハイネストは手にした地呑獅刀ではなく 予備の武器の広刃剣を抜刀して青眼に構えた
アルジオスは血に濡れたままのファルシオンを 左手から右手に持ち直そうとする
「そのままだ 左手を使え」
「しかし…」
「手合わせとはいえ真剣勝負 手を抜くな」
「ふっ 親父みたいなことを言いやがる」

ハイネストの鋭い眼光がアルジオスを射抜く そしてアルジオスは氣付いた
今やハイネストの瞳があの真紅の双眼を持った リフィラムの眼差しと似ていることに 
感情や闘氣が感じられなくなっていた
「獅子は兎を倒すのにも全力を尽くす なぜだかわかるか?
そこには戦士としての相手に対する礼儀があるだけでなく
力を加減することによって 心に僅かな油断が生じるからだ
本人は氣付かぬかもしれぬが 太刀筋はすべてを映し出す
そう 勝負は心で決まる 勝利は剣を抜かずに決まるのだ
戦場では己の心を殺し 相手の心を生かす
そして勝利とともに人心を蘇生し 次なる勝利を望む
いいか 勝利は常に剣の上に在る…」

「…わかった」
ファルシオンが左手に移る
ハイネストの話を聞いていたアルジオスは瞳を閉じ一つ大きく息をして再び瞼を上げた 深緑の瞳が殺意を帯びる

ザッ…
二人が構えに入った 足をずらしつつ相手との間合いを量る
どちらも体を防御する板金鎧を身につけてはいない
間違って剣が当たればよくて重傷 運が悪ければ死ぬかもしれない
しかし その分動きはいつもより鋭いはずだった
闘氣すら消しているハイネストとは違い アルジオスの全身は冷たい殺氣と闘氣に覆われていた
発散こそしてはいないが 凝縮された氣は強烈な威圧感を生み出している
互いににらみ合ったまま ぴくりとも動きを見せない

時が流れ 風だけが二人の間を吹き抜けていく
そして同時に動いた

ガィィン!
剣と剣が激突 激しい火花を散らす
ふっと一歩体を引き 体勢を立て直したハイネストが先に仕掛けた
右から滑らかに銀の弧を描いて 冷たく輝く刃が疾る 速い太刀筋は視界に 幾つものきらめく残像を浮かべる

トンッ
アルジオスが踏み込む
僅かに右に沈めた体ぎりぎりでハイネストの刃は空を斬った 深緑の瞳はハイネストを見据えたまま微動だにしない
アルジオスの左手が右下から大きく跳ね上げられる 左から迫る太刀がハイネストに襲いかかるが予想以上に速い
すでに目では捉えられない まさに銀閃と化したアルジオスの刃をハイネストは心で捉える
心眼に浮かぶ太刀筋をハイネストは自らの剣で防ぐ が

「フッ…」
軽く笑うとハイネストは剣を鞘へとおさめた 首筋にはアルジオスの剣が寸どめで突きつけられている
「太刀筋は見えていたはずなのに どうして途中で弾こうとした剣を止めたんだ」
「見えていても 見切れなかったのさ お前の剣の動きについていけなかった そして…」
アルジオスも剣を引いた全身を覆う闘氣も それにつれて失せていく
ハイネストはいままで腰を下ろしていた岩場に戻り 同じように座った

「そして真剣勝負なら 一太刀で決まっていたか」
ハイネストの言葉をアルジオスの呟きが継ぐ
「しかし 信じられん そんな腕を持っていた男が この大陸にいたとは 傭兵を今までやってきたんだろう その名が伝わらなかったのが不思議なくらいだ」
「まあ ずっと遠くから来たからな…」
適当に言葉を濁しアルジオスは曖昧に笑った
自分達が未来から来たと言っても 信じてはくれないだろう 説明が出来ないのに その事を言って混乱させるよりは黙っていた方がましだ

「ハイネスト ありがとう 一度でもあんたと手合わせが出来て本当によかった おかげで何か心のふんぎりがついた様な氣がするよ」
「まるで もう会えないかのような話ぶりだな」
「ハハッ…さぁて黒毛豹の返り血でも洗い流してこよう ぬるぬるした感触が氣持ち悪いったらありゃしない」
アルジオスは一旦剣をおさめるとハイネストの脇をすり抜けて カインの滝のある岩場へと歩いて行った
去って行くアルジオスの後ろ姿を見送るハイネストは その姿が焚火の明りの外へと消えると再び視線を焚火へと戻したそしてふと氣が付く
「ん? サディ達の姿が見えないな」
いつの間にかサディ ドレイラ ウォーラの寝床は空になっていた


切り立った岩崖から 勢いよく水流の落下するカインの滝の滝壷は ごうごう とうなる怒流に打ちつけられ 白色の水煙で包まれていた
その霧の中を差し貫き 冷青の月の光が水面に揺らめく 美しい円の縁を映している
透き通った水は 清麗な輝きと共に下流へその流れを移している
滝壷の激流は次第にかげを潜め ゆららかな川面が続いて行く

パチャン…
滝の音が遠くに聞こえる中 水面の跳ねる音が張りつめた夜のしじまに響いた
冷たい月明りに 川の浅みに立つ白く滑らかな肌がくっきりと浮かび上がる
濡れた長い栗色の髪は背中に張り付き 沈めた裸身が波に揺らぐ
透明な輝きを満面に満たす清流で 水と戯れているのはサディだった 見事なプロポーションが 幾度となく水しぶきと共に跳ねる

「あぁ 氣持ちいい」
水面上に顔を出している岩場の一つに腰掛け 丁寧に髪を洗い 滴る水を両手で切ると 再び清らかな水に湿らせる動作を何度も繰り返しては ほこりにまみれ 旅で傷んだ髪をきれいに整えていた

と 何かの氣配を感じて その動作を止め視線を向ける
この岩場より上流の少し深くなっている所だ
「誰っ!」
確かに何か潜んでいる岩から立ち上がるとそこを見据え いつでも魔法の唱えられるように身構える

ブクブク…
満月が揺らいでいるサディの眼前の水面に水泡が上がる
そして 突然
「ばあぁ!」
水を割って突如わきあがる 白い肌をした金色の海坊主 もとい 河坊主 が
サディは素早く右腕を動かし魔法を奏でた

『水乙女 彼の者と踊り戯れよ 深き抱擁の力 水の舞台にとどめる束縛の鎖となり 浮き上がる身体を捉えよ』
水の精霊力が呼掛けに答えて発現する
水しぶきをあげて現れたそれは 突然に浮力を奪われ 川底へと沈み込み ばしゃばしゃ と水中でもがいている
それを見おろしサディは 濡れた前髪を軽くかきあげ冷やかに呟く
「フッ…この私を驚かそうなんて百万年早いわ」

「…だから 止めておきなさいって言ったのに」
上流の大きな岩影から声が聞こえた 水をかき分けて現れたのはドレイラだった
頭を抱えつつ 大きなため息をついて サディへと近づく
「サディ 貴方知っていていて『水身浮奪縛』をかけたでしょう」
「とーぜん」
ドレイラはふっと視線を隣の波立つ水面に移す
かぼかぼ と浮かび上がる泡に白いものが水中で暴れている

「…ちょっと もしかして呼吸が出来ないんじゃ…」
「そりゃ そうでしょう」
「それじゃ 死んじゃうじゃない!!」
慌てて 中和魔法を詠み唱え『水身浮奪縛』の効果を打ち消さば 浮力を取り戻した身体が水面に浮かぶ

「がはっ げほげほっ!!」
顔が浮かぶなり 飲んだ水を吐き出そうと死にものぐるいの顔でせき込む
腹なら多少は問題ないが 氣管や肺に入り込んできた水は死ぬほど辛い 顔を真っ赤にして苦しんでいたのはウォーラだった
「し 師匠!! わ 私を殺す氣ですかっ!」
本氣でサディにくってかかるウォーラ あのまま放っておかれたら間違いなく溺死していただろう
しかして 当然サディは無視しつつ科白を繋げる
「貴方たちも水浴びに来たの?」
「ええ せっかく河があるんですから 旅塵を洗い落としてさっぱりしようと思いましてね」
「師匠! 聞いてるんですか!」

ガィィン!
「あら?」
サディの耳がぴくりと動く
風に流れて聞こえたのは金属音 それも剣と剣の打ち合う音だ
サディとドレイラは月の浮かぶ夜空を 正確には河横の高くそびえる岩壁を見上げた
金属音はその一度だけで あとは風に揺れる葉が擦れあう音だけが頭上で鳴っている

「一直目は確かハイネストとアルジオスでしたね」
「どうせ 剣の稽古かなにかでしょう」
「だいたいですね師匠は わがままで 自分勝手なんですよ 少しは弟子に対するいたわりを…」
『乙風沈黙』
「…」

それを契機に ふと訪れた空白の静寂の時 三人の間を木々のざわつきを運ぶ 湿り氣のある夜風が吹き抜けた
「…サディもう上がりませんか 予想以上に風が冷たくて これじゃ身体が冷えてしまいますよ 焚火で暖をとりましょう」
「そうね」
水に浸かっている間はそれほど感じないが 大氣はかなり冷え込んでいる
濡れた身体に吹き付ける風はその都度肌から体温を奪い去っていく
ばしゃばしゃ と河を遡って三人は自分達の服を脱いだ場所へと向かった

じゃばじゃば…
「…ふぅ」
カインの滝に降りてきたアルジオスは 滝壷から少し外れた流れのゆるやかな水べりで屈み込むと 清水で顔を洗いぬるぬると するなま暖かい鮮血を拭い落としていた
顔面に感じる冷たい水の感触が頭の芯まですっきりさせる 心にわだかまっていたものも一緒に洗い流されていくようだ
髪に被った血も洗い落とすと アルジオスは揺らぐ川面に映る自分の顔をじっと見つめた

「勝利は常に剣の上にある か そういえば昔 傭兵仲間から聞かされた科白だったな あれは ハイネストの言葉だったのか…」
左手を水鏡の顔に差入れて 水をすくい上げる 指の間からこぼれ落ちるきらめきの雫
「過去に飛ばされたことは 俺にとっては幸せだったかもしれんな 俺の長年の心の闇に ハイネストは道標を示してくれたんだからな やっぱりヤツには どこか人を引き付けてやまないものがあるのか…まったくかなわんよ」
ふと 浮かんだ笑みは こみ上げてくるおかしさからか あるいは自嘲の笑みか ともかくハイネストの所に戻ろうと アルジオスがふっと顔を上げるのと同時に
水の中をかき分け下流の岩陰から現れた三つの白いものが視界に映った

「え…」
アルジオスの動きが途中で凍り付く
「あ…」
予想だにしなかったアルジオスの姿に サディ達 三人の表情が一瞬止まる

乾ききった奇妙な雰囲氣がその間に流れる

時と音
そして 思考すら停止した
その場にあったのは冷たい月明りだけ
そしてそれは完全に無防備な三人の裸体を艶やかに浮かび上がらせていた

パシャン
魚の跳ねた水音が空しく響く
しかし それが合図だったかのように 止まった時が再び動きだした
呪縛から解き放たれた四人は殆ど同時に我を取り戻した

「キキ…」
サディの頬が ピクピク とひきつる
その顔に幾つもの感情は伺えない はっきりとただ 一つの感情だけが ありあり と浮かんでいた

「ま 待て…誤解だ…」
しかし その言葉がまったく意味をなさないことを アルジオスはサディの他の二人の雰囲氣から悟っていた
アルジオスは自分の体の内部に無数の氷のつららが発生したように感じた

『獄炎超爆裂発破嵐!!』
『光烈斬諦落戦破!!』
『僊麗流嵐激斬空鳳翔刃!!』
炎と光と風の超霊力の爆烈と
悲鳴は
しかして 流るる滝の轟音にかき消された


「どうしたんだ その姿は!?」
戻ってきたアルジオスの姿を見て ハイネストは驚きの表情を浮かべた
「いや 何でもない」
全身血まみれになりながらも アルジオスはハイネストに弱々しい笑みを返し 岩へと倒れるように座り込んだ


「どうしたんですか サディ」
岸へと上がり木の下の平らな岩の上にたたんで置かれた自分達の服を身につけた後のこと
ドレイラが怪訝そうな表情で 突如宙を見上げたサディに問いかける

「氣付かない? 殺氣が近づいてくるのよ」
その言葉にドレイラとウォーラは周囲を見渡した
片側はごつごつとした 岩肌の切り立った崖
その崖の向こうは 野営をやっている場所で 対岸は暗い闇月明りの届かない 木々の密集した林
丈の高い木々の枝や葉が 風に揺れたてる音と すぐ間近の滝の どうどう と流れ落ちる轟音が周囲を支配してる

サディは強烈な殺氣が背後から ちょうど下流の林の中を近づいてくるのを感じ取っていた
数も一つではない 最低で八つ みな膨れ上がった殺氣をはらんで迫っている
大きくなる殺氣に反応し サディの瞳がすぅっと細まり魔法を唱えられるように軽く身構えると 二人に言う
「林の中から来るわ いい?現れたと同時に 魔法をたたき込むわよ」

ガガサッ
滝の轟音に混じって木の上方の葉が擦れる不自然な音
耳ざとい三人は僅かなそれを聞き分けた 各々魔法の初旋律を唇にのせる が…

「…通り過ぎていった」
サディが拍子抜けしたような表情を浮かべた
八つの殺氣はまるでサディ達など眼中にないかのようにためらわず素通りしていったのだ
しかし その理由はすぐにわかった

じゃぶじゃぶ と水が複数の箇所で跳ねる音が上流から聞こえてきたのだ それは少し先の滝壷のある所 そして女の声が続く
「行ってみましょう」
サディが二人を促して走りだした
そして でっぱった大岩を曲がり 滝の落ちる大きな滝壷が目の前に広がる
八つの殺氣の正体 月の光に照らされたそれは不氣味な妖犲達のだった

妖犲達は滝壷で水浴びをしていた女を囲むように じりじり とその包囲の輪を狭めている
おびえた表情で目前の恐怖の対象を凝視する女は 水面上に出ている豊満な胸を隠すようにして 滝の方に少しずつあとずさっている
その腕には妖犲の爪に引き裂かれた 痛々しい傷が大きく口をあけ 鮮血を水面に滴り落としている
二十代半ばの青みの強い黒髪を持った 薄い褐色肌のそこそこの美人だ

『如雷撃律!』
光輝く雷の筋が 妖犲の一匹を直撃し 肉の焼け焦げる嫌な匂いを残して黒く炭化した
それは水の中へと沈む サディの放った雷の魔法だった
残りの妖犲と黒髪の女が 一斉にサディ達の方を振り向く 残りの妖犲は 突如 現れた新たなる敵へと向かってきた

「ウォーラ こいつらは私達が引き受けるからあの女の所へ」
サディの言葉にウォーラはうなづくと 大きく迂回して黒髪の女の所に駆け寄っていく
「武器がありませんから 接近戦になる前にかたづけましょう」
散らばってこちらに向かって来る妖犲を見て 手早く魔法を唱える それほど複雑な身振りを必要としない魔法だ

『古式の理 混乱の誘い手よ 彼の者を忘却の淵へ導け』
しかし 目標とした妖犲は 一瞬動きを止めたに過ぎなかった
いまいましそうに表情を歪める
「くっ 抵抗された…」
「ドレイラ この場は私に任しときなさい」
「…わかりました」
後ろに下がるドレイラをちらりと目で追ってから サディは右腕を天に掲げて短く魔法を唱えた

ヴォン…
その右手の中にぼんやりと淡い光を放つモノが姿を現す それはちょうど短槍のような形をしていた
「さぁて かかってきなさい」
光る槍を構えサディが不敵な笑みを浮かべる

ザンッ
「まず一匹…」
サディとすれちがった一匹の妖犲のわき腹から鮮血が噴き上がる 倒れる妖犲の側から川の流れが赤く変わっていく
飛び散った血しぶきに 残りの妖犲も そしてサディも 否応なしに感情が高ぶっていた

「大丈夫? 今 その傷を直してあげる」
女のいる所は思ったよりかなり深かった
ウォーラはいつの間にか胸の辺りまで水面下に没している女は
腰から下しか水の中に浸かっていない所を見ると 川底の岩にでものっているのだろうか
近づいて来るウォーラを見て 女は一瞬戸惑った様な表情を浮かべた
「心配しないで 私は貴方の敵じゃないからさ 傷を見せて」
にこっと微笑むウォーラに 女はその傷をおった右腕を伸ばした
傷は肘の辺りから肩口まで二の腕全体に及んでいた
血を滴らせる三つの爪痕の傷は しかしそれほど深くはないようだ

「よかった 見かけほど大した傷じゃないわ これなら治癒の魔法で直せば 痕も残らないわ」
ウォーラは女が痛くないように 傷口に手を添える様に軽く触れると精言霊を奏でる
それは 肉皮を司っている 土の精霊を使った治癒の魔法であった
はたして傷口は 淡い光に包まれると みるみるうちに消失していった

「これでおしまい…ん?」
ウォーラは女の視線が戦いを見ているのに氣付いた
「大丈夫 あんな妖怪ぐらい師匠がやっつけちゃうから」
「師匠?」
「ええ 私の魔法の師匠なの 性格はとぉぉぉっても悪いけど腕は凄いんだから」
「確かにかなりの腕だわ」
「でしょ?」

「…もっとも あの程度の犬コロにてこずるようじゃ 私の相手にならないけどね」
「え?」
ウォーラは不思議そうな表情を浮かべて女の顔を見た
女も戦いから視線を外してウォーラを見返す
その顔に優しげな微笑みが浮かぶ

ズンッ!!
ウォーラの下腹部を鈍い衝撃が襲った
「そして 本当の獲物が これで上がった ってことなのよ…」

光の筋が一閃 妖犲の肩口から腹にかけ袈裟に下ろされる 断末魔の咆哮を残し これで合計六匹目の妖犲が崩れ落ちた
サディはそのまま ばしゃばしゃ と水をはね上げ七匹目の哀れな犠牲者を求める
足を水に取られて地上と同じ動きは出来ないが それは相手も同じ条件だった 三本の長い爪をきらめかせて妖犲が跳躍した

『光燐霊縛!』
突如 何かに束縛を受けたかのように 妖犲の体が硬直する
スブッ…
落下してきた妖犲の心臓を 光の槍が正確に貫く
「まーったく 私に任しときなさいと言ったのに」
力を込めて槍を引き抜くと サディは後ろを振り返った
「確かに その場は貴方にお任せしましたけどね」
少し後ろの浅瀬になっている所で ドレイラが笑みを浮かべて返す

空中で妖犲の動きが止まったのはドレイラが不可視の縄が破魔法を使い 妖犲の体を束縛したお陰だった
ドレイラが一旦後ろに下がったのは 破魔法を使うために水の薄い浅瀬を必要としたためだったのだ
残った一匹も霊力の縄の束縛を受けて 動きを封じられている
ふっと サディが表情を緩めた その時…!

キャアアアッッ!!
絹を引き裂いた様なウォーラの絶叫が響く
はっ とそちらに視線を向けた二人は そこに展開された光景に思わず息を飲んだ
「…ウォーラ」
かろうじてしぼりだしたサディの その一言はかすれたものだった
悠然と微笑む女の側で ウォーラは水面にうつ伏せに浮いていた
その周囲が赤く染まっていく激しい流れに洗われ 血の色はすぐに失せるはずが 逆にゆっくりと広がっている
凄い量の血が水中に流れているせいだ
そして ウォーラの身体がゆっくりと宙に浮いた

ドクドクドク…
とめどなく滴り落ちる鮮血が 激しい水の流れに朱の色の流れを添える
そして ウォーラの身体を宙で支えているものは 大蛇の頭 それがウォーラの腹を喰い破るようにして貫いていたのだ
血に濡れたその大蛇の瞳がじっとサディ達を見ている

「ア…アウゥ…」
力なく二つに折れる身体全身から 次第に血の氣が失せているのがはっきりとわかる
その瞳もどこを見ているのか まったく焦点があっていない
口から漏れているうめきは すでに微かな虫の息だ
宙に浮いたままぴくりとも動かないウォーラの身体は 今や精氣が極端に酷薄していた
このままでは確実に死を向かえる
大蛇の横で腕組みし 笑みを浮かべてこちらを見ている女が口を開いた

「どうしたの? このままじゃ この娘は死ぬわよ」
槍を持つ手に力を込めるとサディはキッと女を見据えた
「降魔神軍の刺客か…」
「ま 部下じゃないけど そう言うことになるかしら 私はイオ=スィーフィ 恨みはないけど ハイネストの首級をもらいにきたわ」
イオとの距離はそれほどあるわけではないが 滝の部分はかなり深いようだ
水深を考えると直接攻撃は難しい となれば暗黒魔法がてっとり早いが…

「ちっ 広範囲の暗黒魔法だと ウォーラを巻き込んでしまうわね…
『草木をはぐくむ母なる力 光の精霊よ…』」
効果を絞った破魔法を唱えようと サディが左腕をかざした時
鎌首をもたげた大蛇が動いた ちょうどウォーラの身体がイオの前に出る形になる
「くっ…」
唱えようとした魔法の詠唱が途中で途切れる
大蛇はウォーラを楯にするつもりらしい
これではたとえ手にした槍を投げたとしても結果は同じことだろう

「…サディ」
背中からドレイラが小声でささやきかける
「私が感情に作用する破魔法を試してみますから あの女の注意をしばらく引き付けていて下さい」
「わかった」
視線はイオに向けたまま やはり小声で返すと サディは ばしゃっ と一歩を踏み出した
サディの動向を見つめているイオはぴくっとそれに反応する
「まったく 次から次によくもまぁ これだけの刺客を送り込んでくるものね それに妖怪や妖獣達ならわかるけど どうして ウィボーンや貴方達のような人間が アホンダ…アルンザード軍についているの? アルンザードってそれほどに魅力的な人物なわけ?」

サディのその言葉に 自分に注意を引き付けようとして
何氣なく発したその言葉に しかして イオは表情を動かした
「他の連中は知らないけど 私は取引をしただけ 願いを叶えてもらう代わりに ハイネスト=マクベリーの首をとるってね」
「取引? まさかハイネスト達の力を知らないわけはないでしょう それだけの価値のあるものなのその願いは」
「価値のあるものかですって? 貴方達の様な普通の人にはわかりはしないわ! この苦しみなんか…!」

吐き捨てるようにイオはそう言い放つと ゆっくりと動き始めた
泳いでいる様子はない腕は組んだまま立ったままの姿勢でまっすぐに進み サディとの間をつめる
ウォーラを貫いた大蛇も彼女に従って動いた
やがて滝の深みを脱し イオは水の薄い浅瀬へと上がった
その体が水面から持ち上がり 今まで水中にあった全身が月明りにさらされてあらわになる

人複首蛇スキュラ?」
「外れ 私はスキュラじゃないわ これでも人間…」
蛇は一匹だけではなかった そしてウォーラを貫いている大蛇とイオは一体だったのだ
イオには人間の脚がなく その代わり合計九本の大蛇の長い首とそれと同じ程の鱗に覆われたたこの触手の様なものが生えていた
スキュラと呼ばれる妖獣と似ているが 下半身に生えている大蛇と触手の数が異なっている
ふと サディはイオの瞳の中に えも言われぬ深い悲しみが浮かんでいるのを見た氣がした

「そして これが私の今の姿…」
イオの呟きと同時にその全身が変化を始めた
触手と同じ様な細かい鱗がびっしりと全身に浮かび上がり 褐色のつややかな肌は青みを帯びた硬質のものへと変わる
十本の指の爪は急激に伸び刃物の様に鋭く尖っていく 月明りが鱗に弾かれて  妖しい光を放っていた
サディは余りの出来事に何も言えず呆然とイオを見ていた

「私は もともとは人間だったのよ だけどある事故が私をこんな姿に変えてしまった その時から人間とはあまりにかけ離れたこの姿を見て世間の人々は恐怖しそして 私を迫害し始めた 当然でしょうね私はもう人間じゃなかったんですから だけど…今まで友人だった人も そして愛しい人も手の平を返したかの様に態度が変わった 私が人間じゃなくなったから 私が化物のような姿をしているから…貴方達にはわかりはしないわこの苦しみは! 人間であることを否定され ほんの昨日まで仲のよかった友人達に 化物とののしられること辛さなんてわかりはしない…」
「じゃ その取引って…」
「ある人が傷心の私に声をかけてくれたの その人はアルンザード様なら元の人間に戻すことが出来るって 私にとって人間に戻ること以外には何も考えられなかった 人間に戻してくれるのなら私は悪魔にだって協力を惜しまない そんな氣だったから迷わず私は返事をした ハイネストを倒せば私は人間に戻れるのよ その為には邪魔をするものは みな殺す!」

キッ とイオの視線が強くなる 悲しみの色はすでに執念の色にとってかわっていた
ウォーラを宙に浮かべた一本を除いた 残りの八本が一斉に鎌首をもたげ威嚇する
サディも再び魔法を唱え直し 今度はバスタードを形どった光の力場を形成した 刹那
ドレイラの魔法が解き放たれた

『眠りが森の精霊 黄金の夢の砂 彼の者に醒めることなき安らぎの時を 永遠の夢の世界を 瞼の内側に』
強大な霊力を込めた渾身の魔法だった いつもの数倍近い精氣を振り絞り 練り上げた眠りの呪力がイオに襲いかかる
が イオの眼前の空間が水の様に揺らめくと 音もなく弾けた
それは水面に小石を投げ込んだときの波紋とよく似ていた
そして魔法の効果はイオに届くことなく 打ち消されてしまった

「そんな…今のは一体…」
今までに見たことのない魔法に戸惑うドレイラに イオは言う
「この姿は私から人間であることを奪ったかわりに力をもたらしたわ 今や水は私の親しい友 水の力は私の意のままに従うの そう すべてね…」
イオは唇の端をつり上げて 皮肉げに笑みを浮かべた
サディがその笑みの意味に氣が付いたのと イオの口から言葉が滑り出したのはほとんど同時だった

『乙水蛇槍撃!』
その呼掛けに応じて イオの足元の水面が波うったかと思うと
水がまるで生きた蛇のように尾を引いて 一斉にサディに襲いかかり 激しい水圧に凝縮された
無数の水の矢が サディを串刺しにしようと迫る まさにその瞬間

『炎王爆裂流!』
半球の炎の壁が サディのすぐ眼前に出現する
鋭い水の矢は その炎の楯に激突し 激しい音をたてて 次々と蒸発していく
周囲は滝壷の水煙よりも濃い湿氣と熱を帯びた水蒸氣で覆われ 視界が遮られた

「くっ…!」
まとわりつく熱氣に イオが顔をしかめる
水の力を得た彼女にとってこの姿でいる時には 僅かな熱でも大敵である
それは全身を覆う鱗の水分が奪われ 皮膚が乾いてしまうと その動きが鈍ってしまうからだ
水の力を行使しようと イオは心の内で念じ望むべく結果を頭に強く描いた
その際 普通の精霊使いがするような 身振りや魔法を彼女は必要とはしない すでにその力は 彼女の支配下にあるのだから

イオの全身を ごく薄い水の膜が包み込んだ
視界の効かない霧の中で イオは周囲に注意を注ぎ氣配を探った

ヒュゥン
左後ろから聞こえた風を切る音と氣配とにイオ自身が意識する前に 三匹の大蛇が動いた
すぐ前ですら視界の効かない乳白色の世界に 蛇が躍り込む
ザウンッ!
イオが表情を歪める殆ど時を置かずしてその乳白色の世界からサディが剣の形を取った輝く力場を振りかざし 飛び出した
かろうじて身をひねってそれをかわすイオ

「…正直云って驚いたわ 十分賞賛に値する腕ね」
薄れ始めた水蒸氣の霧の中で 宙を見据えイオが感心したように言う
周囲にゆらゆらと揺らめかせている その蛇のうち襲いかかった二匹には頭がなかった 切り落とされた部分からはどくどくと血が流れている

「ほめてくれてありがと お礼に責任をもってあの世に送ったげるから ご注文はある?」
背筋がぞっとするほどの妖しい笑みを浮かべ サディはイオを見おろしていた
サディの体は水面から人の背丈ほど浮いていた
「水の影響下から逃れるために『如飛翔律』を使ったのは賢明な判断ね」
イオは軽く笑うと 切り落とされた二匹の蛇から流れる血が ぴたり と止まった
そして一瞬 その二匹の胴体がびくっと震える と その傷口からまるで生えてくるかの様に 新しい蛇の頭が現れた

「再生能力…」
「言ったでしょう 私はスキュラじゃないのよ 水蛇竜 ヒュドラ 以上の再生能力も この身体には備わっているわ」
「蛇をいくら切り落としても無駄なワケか…じゃ 貴方を真っぷたつにすればいいってことね」
小声で魔法を唱えるとサディは鎌首をもたげた蛇に その中心にいるイオに向かって剣を振りかざした
それを迎えうつようにウォーラを貫いている一匹を除いた八匹が 一斉にもたげた鎌首をはね上げた
しかし 八匹の蛇の動きもサディの想像以上に速かった
休み無しに次々と繰り出される八つの毒牙が サディを引き裂こうと襲いかかる
二 三匹ならば まだかわして攻撃をしかけるということも可能だが この速度で八匹ともなるとそれも難しい
それどころか長い首を活かして四方八方からの自在な攻撃に意識が散らされ 近寄ることすら困難になり
しまいには 回避すら危ぶまれる状態だった

『万物の根元たる さ迷える星屑達よ 焦土を促す紅蓮が炎瀑流を我が前に!』
上空に逃れることは出来なかった もし そうすれば蛇達の牙に捕らえられることは明白だった
悠然とサディを見つめるイオを一瞥し 蛇の動きに隙をつくる牽制の魔法を放とうと 懸命に攻撃を避けながらも詠み唱える

その時 最後の一匹がウォーラの身体を サディの前に突き出す格好で動いた
サディの詠唱が一瞬途切れ そこに隙が生じた
蛇の牙はサディの身体を捕らえたかに見えた しかして それは肌に食い込む寸前で見えない力に押し返された様に弾かれた
サディが切りかかる前にあらかじめかけておいた『古式透衝壁』の破魔法だった

「なにっ!?」
予想だにしなかった出来事に動揺するイオ それはサディにとって絶好のチャンスだった
動きの止まった蛇の合間をかいくぐり剣を閃かせる
狙うのはウォーラを捕らえている蛇 が イオもみすみすそれを許すほど甘くはなかった
イオの側の水面から意志を持った水の縄が創り出され サディの足首にからみついた

【焦炎衝!】
詠唱なしでサディの左手から放たれた炎の波動が 水の縄を蒸発させる
動きの止まったサディに蛇が一斉に攻撃を仕掛けた サディの身体がその衝撃で後方に吹き飛ばされる
追い打ちをかけるようにイオの思念によって 彼女の周囲の水が具象化する
イオの眼前に水がたちのぼると 渦を巻くように先ほどの水の矢を一つに集束した水の槍が形成された

物理的な攻撃に関しては威力を発揮してその力を防ぐ『古式透衝壁』も固体ではない破魔法的な力までは意味をなさないのだ
吹き飛ばされた不安定な体勢から サディは精言霊を奏で出した

『偉大なる炎精霊王に於いて命じる 我が四囲の水の意志はいかなる力も伴わず』
大地精霊階(神・帝は天空星霊階)では最大の精言霊『炎王中和水霊域』
術者の望む精霊力を その上位精霊 嵐炎氷石 に働きかけることによって 広範囲にわたり中和してしまう この精言霊を サディはその視界にある全ての水の精霊に使ったのだ

(これで 蛇の攻撃は透壁衝力場で弾き 水の力も使えない…極めた!!)
もはや勝利を確信したサディのその考えは しかして 一瞬後には脆くも崩れさっていた
この精言霊は水の精霊力を強制的に打ち消すのではなく 精霊の干渉を解き 自然の流れに戻してしまうのだが
どちらにせよ実質的にはイオの扱う 水の精言霊の効果は消えるはずだった
「そんな馬鹿な…」
確かにこの周囲から水の精霊力は消えていた
しかし超濃圧に凝縮された水の槍には 何の変化も起こらなかった

「サディ!!」
ドレイラが救いの破魔法を唱える間もなく 水の槍がサディに炸烈! 水しぶきに混じって鮮血が飛び散る
「何で 水の力は封じているハズなのに…!」
全身を切り刻まれその白い肌を幾筋もの血が伝い落ちる
辛うじて顔だけは両腕でかばったものの その腕は直撃を受け止めた衝撃で ずたずたに引き裂かれたように大きな傷となっている
もし 腕でかばっていなければ 身体の方に風穴が開いていただろう
両腕で防いだその時に散った水の力が その勢いを失わず全身を裂いたのだった

「そうそう 言い忘れていたわ 私のこの水の力ね 海彼霊帝 かわいづみかど 自体を直接支配して使っているの だから私が力を使うときには魔法も必要とはしないし 魔法でも力は封じられない すべての水の力は私の意志に従う ああこれは言ったかしら 当然 中和水霊域 ニュートリング も無駄ってことね」
「ふーん そうだったの…」
呟いたサディの声は弱々しかった
腕の傷の激痛がすさまじく  ともすれば氣を失いそうなほどの苦痛に サディは懸命に堪えていた
しかし それでも極力表にあらわすことを拒む 彼女のプライドは ある意味では賞賛にも値する
勝ち誇った顔でイオが ゆっくりと近づいて来るのを 痛みでぼやける視界にとらえながら サディは自分の傷を癒すべく 精氣を絞り出す

「ドレイラ駄目っ!! ウォーラが巻き込まれるっ!」
魔法の詠唱を止めサディが叫んだのと イオの背後からドレイラが集束した霊力を解き放とうとしたのと
大蛇がウォーラの身体を楯に魔法を防ごうと動いたのと どれが先かは判らない
しかし空白に終わったその刹那を イオは逃さなかった
「殺った!」
「あっ…」
サディに向かって両腕を突き出したイオの開いた掌の前に 再び水が渦巻いて凝縮され 無数の龍の姿を形造る
まさにそれが放たれようとした その時だった

キュインッ!
上空より鋭い音が光の筋を引いて流れ落ちる
光はまるで狙ったかの様にうねる蛇達の間を縫って ウォーラを持ち上げている一匹を切断した
ウォーラの身体がゆっくりと宙を舞い 水しぶきをたてて水の中へ沈む
水面に顔を出している岩に突き刺さった光の正体は 奇妙な形の三叉矛だった

「何者っ!?」
槍を放った者の姿を求め イオとサディが上空を振り仰ぐ
月明りにシルエットで浮かぶ高くそびえる崖の上には しかし それらしい姿は何もなかった
もっとも サディには誰が投げたのかは判っていた
「そんな 蛇の首が再生しない!?」
慌てた様子のイオ さっきサディに切り落とされた時はいつものように間をおかずして首が再生出来たのに
三叉矛に落とされた首は どうしたことか再生しないのだ
それどころかその部分に限っては体内の水の流れを操って 血を止めることすら出来ない まったく血が止まらなかった

『乙晄弾爆烈衝!』
ウォーラがイオの側を離れたのを見て ドレイラが霊力を解放した
手の平から打ち出された光の弾丸が命中するや それは膨張してイオを包み込んだ
「ウォーラは任せたわよ!」
ドレイラにそう言い放つとサディは『古式飛翔』の最大速度でイオに向かって突っ込む
手にしている剣は純粋な光力場だから 重さはまったくない 問題は剣を振るう時の激痛だ
イオの前方の水が壁の様に噴き上がると サディを飲み込むべく巨大なカーテンの様に波うつ

「ラファ=デュレス=ミュート=ロウ=マギ」
透明な しかし りんとした強い意志の篭った声が 滝の轟音の中で確かに聞こえた途端 水のカーテンは力を失ったように崩壊した
イオの支配から離れた水が一斉に重力に引かれ 滝のように落下する
その中を突き抜けサディが イオに向かって渾身の一撃を振り下ろした
攻撃に移った三匹の蛇ごとぶった切ると 剣はイオの左肩をとらえた肩口から胸にかけて大きく傷が開く

「キャアッ!」
鮮血を噴き上げながら イオが数歩後ろへたたら踏む
しかし 十分致命傷となりうるほどの斬撃は イオにとどめを刺すには至らなかった
イオの全身を覆う鱗がかなりの強度を持っており その威力をかなりそぎ落としたのだ
一撃で決まると考えて放った攻撃は サディの腕にすざまじい激痛となって跳ね返ってきた 表情を歪めながら今度こそ治癒の魔法を唱えた
傷口は淡い光を発しながら すぐに癒えて痛みが和らいでいく
イオも傷を直すべく体内の流れを調整するが やがてその顔が青ざめる

「無駄です もう水は貴方の支配を離れているのですから」
再び聞こえた風のささやきの様な声に 二人は声の方向を目で追った
きらめきを放つたおやかな黄金の滝 澄んだ泉の色の外套は風に揺らいでいる
滝壷を背に軽やかに空中に爪先だっているのは 美しい仙兔の女性だった
神々しさに加えて月明りがその姿に 幻想的な雰囲氣すら与えてる月の女神のごとき氣品と美貌を備えたその女性は ラトゥヌムゥだった
その手には不思議な文様の描かれた 半ば透明の水瓶が抱かれている

「まさか星霊の力を封じた…? いくら 熟達した言精霊使いだって 私の力を完全に抑えることは出来ないはずなのに 貴方一体 何者?」
動揺の色を隠せないイオの視線にも ラトゥヌムゥは表情を動かさない
「私のことよりも 目の前のことに氣をつけたほうがいいのではありませんか」
「そのとーり」
眼前へと迫るサディに大蛇が四方からその牙をむく

『炎弾爆裂球!』
サディを中心に膨れ上がった氣の波動が一瞬にして爆発 十分な破壊力を伴った衝撃波が襲いかかろうとした すべての大蛇を 無防備だったイオの身体を 打ちすえる
避ける間もない至近距離の衝撃に イオは全身まともにそれを食らった

「ギッ…!!」
顔面の痛みにイオは顔を押さえてのけぞる イオを守る蛇達も衝撃で弾かれ 一瞬だが完全にがら空きとなった
その身体を両手で構えて 十分な力をためた剣が貫き通した 硬い鱗の装甲を撃ち破って その切っ先は背中へと抜ける
ついさっきまで身体の中で生命を支えていたはずの鮮血が 剣を伝ってわずかに滴り落ちる

断末魔の悲鳴を上げることもなくイオは絶命していた
サディが剣を引き抜くと 支える力をなくした身体が水中へと倒れ込む 蛇達もすでにぴくりとも動かない
イオが完全に死んでいるのを確認してから サディはドレイラによって運ばれた ウォーラの身体が横たえられる岸辺へと向かった

その時 サディの背筋を不氣味な感覚が走り抜けた
殺氣とはまた異なった何かまとわりつくような 陰湿な妖氣
背後を振り返ったサディは水面下に沈んだはずの イオの遺体のある辺りに一人の影が浮いているのを見た
全身を漆黒の外套で覆ったその影は 無言で驚くほど青白い指を くい と動かすと イオの遺体が水を割って宙へと浮かび上がった

影はちらりとだけサディの方を向くと 低い声で魔法を呟き イオの遺体と共に月夜の闇に消え入るように姿を消した
わずかな間をおいて 不氣味な男の声がどこからともなく響きわたった

「…あれだけの力を与えても勝てませんでしたか」
それだけ聞こえると 立ちこめていた闇の妖氣は ふっ と拡散した
訝しげに首を捻るサディは しかし すぐに氣を取り戻しドレイラの元へと向かった

「どう? ウォーラの様子は」
「まだ かろうじて生きていることは生きているけど…」
問いかけるサディに屈み込んで傷の様子を見ていたドレイラは顔を上げずに力なく首を振った
「駄目…もう生命の精霊が殆ど働いていない 内臓が完全に喰い破られているんです これじゃあ いくら生の精霊に働きかけても回復の見込みは…」
低く押し殺したドレイラの声に サディもしゃがみ込んでウォーラの様子を伺った

羽織を大地に敷いて その上に横たえられたウォーラの身体は血の氣が喪失し異常なまでに青白くそして冷えきっていた
ほとんど息もしてなく 口元や胸が動く氣配はない すでに瞳からは光が失われていた
そして大蛇によって喰い破られた無残なまでに痛ましい腹部の傷は背中まで抜け
傷口に溜った多量の血も既に 引き裂かれた臓物と混じりあい固まりかけている

死…
その冷たき抱擁の腕がほとんどウォーラを包み覆っているのは もはや誰の目にも明らかだった
「この傷じゃ 星霊殿破魔法の高位の治癒術でも助からない…」
サディにもドレイラにも今 自分達の使える魔法ではどうすることも出来なかった
致命傷とも言えるほどのこれだけの傷の具合いともなると 癒しを得意とする星霊殿破魔法でさえ
長い時をかけ 治癒の訴いを徐々に施していかない限り 破壊された臓物等は 即座には再生できない
最期に残されたウォーラのわずかな命の灯火すら 消え失せようとするその瞬間を
ただ黙って見ていることしか出来ない サディとドレイラは何も言葉がなかった

いや言葉に出せなかったのだ 言葉にしてしまうと堰をきって溢れ出た感情が 止められない様な氣がして何も言えなかった
今にも泣きだしそうにうっすらと涙の浮かぶ瞳を しかし サディも隠そうとはしなかった
その時 すっと水の色を外套が視界をよぎった

「ラトゥヌムゥ…」
サディ達と向き合うようにしてウォーラの脇に屈んだのは
ラトゥヌムゥだった
ラトゥヌムゥは愁いと悲しみを帯びた眼差しで ウォーラを見つめると すっ とその両手を頭上に掲げて瞳を閉じた
その唇が精霊達の美しい旋律を紡ぎ始める
『異なる力にして等しき存在 最も身近にして最古の友 幻が朔 よ  その慈しみを我が願いにかけて それは冥き泉の淵より 石土 こつにくを掻きつ 雷炎 ねつ の閃きを再び炊き熾し 空風 いぶき とその連なりを是に取り戻さんと祈るもの 彼の者が失いし 生ける霊命の息吹を再び与えん』
その詠唱と共に ラトゥヌムゥの全身がほんのりと珀い光を放ち始める
暖かでそれでいて見ている者の心に 安堵感をあたえてくれるその琥珀の光はラトゥヌムゥの両腕へと集まっていき その手の平に球状の輝きとなって宿った

「幻朔星霊公主の精言霊…」
その光の正体に氣付いたドレイラがそう呟いた
珀光の球体はこの物質界においては 形をとって現れることのない生溟の精霊だった
ラトゥヌムゥ自身の生命力から召喚したそれは 遥かに輝いていて 強い命の波動を持っていた
ラトゥヌムゥはその手をゆっくりと ウォーラの腹の傷口へと当てがうと
光はラトゥヌムゥの手を離れ 傷口を中心に全身に染み渡るように広がる

命の光に優しく包まれたその肌に 再びうっすらと赤みがよみがえった
傷口も活性化された生命力によって みるみる間に再生していく
そしてその身体から光が失せたときには 傷口はもう跡形もなく消え去り 肌には暖かさが戻っていた

「う…ん…」
ウォーラがゆっくりと身体を起こす
その瞳はまだ焦点が合ってはいないものの 生きている者の意志の輝きが宿っていた
「ウォー…ラ…?」
サディが震える声で呟く
「あ 師匠 おはよーございます」

どげしっ!
サディの膝蹴りが まともにウォーラの後頭部に命中する
「いったぁい!! 師匠 いきなり何するんですか!?」
「この馬鹿…心配かけさせて」
頭を押さえて文句を言うウォーラを サディは再びどくつ
「いたいっ!!」
「さ もう戻るわよ そろそろ星の位置が変わる 夜営の交替の時間だわ」
「あれ? ラトゥヌムゥの姿がありませんね」
ドレイラがふと氣付いたように口にする いつの間にいなくなったのか
ラトゥヌムゥの姿 ついでに岩瀬に突き刺さっていた三叉矛も消え失せていた

「だけど この前の崖崩れの時といい 今回の戦いといい 大地の力の次は 溟霊 みづのかみ の力を自在に操る…やっぱりサンソレオ達ただ者じゃないわね」
「 鎮を操る杖を持つ長髪の騎士 に 溟を操る壷を持つ仙兔 ね…」
思い出したように呟くと ドレイラが軽い笑みを浮かべる それを耳ざとくサディが聞きつけた
「ドレイラ あんた何か知ってるでしょう」
「いーえ別に」
「ちょっと教えなさいよ! ねぇったら!! あ こら待ちなさい!!」
走りだした二人の後ろ姿を 呆然と見つめていたウォーラだが 口元に微笑みを浮かべてぽつりと呟いた

「ありがと」
そしてウォーラも二人のあとを追って駆け出した
「師匠! 待ってくださいよぉ!」
天頂近くに昇った満月の冷たい明りを浴び カインの滝は再び落ち着きを取り戻した
それは目前へと迫る嵐の前の静けさを 暗示しているかのようだった
月は暗雲に遮られることなく いつまでも天空に輝いていた
まさに闇の空において一際 美しく




>>次が章ゑ



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